Sweet Butterfly Suite


Sweet Butterfly Suiteスウィート・バタフライ・スイート

~第一羽~ 再生、或いは不死のはじまり

 ――彼女が目覚めて最初に感じたことは、酷い喉の渇きだった。
 それから少し遅れて目眩、動悸、軽い吐き気といった症状。気怠くて身体が鉛のように重たい。意識は朦朧としている。
 深い眠りの底に沈んでいたような、夢と現の境界を漂っていたような、とても不思議な感覚の中に居た。
 彼女の周りには蝶が舞っている。照明代わりに、翠玉エメラルドの色に発光して飛び回る蝶。一羽、二羽なんて数じゃない。それは夥しい数だった。
 彼女は、その蝶の群集に包まれるようにして、ベッドの上で眠っていた。
 異様な光景に常人であれば畏怖を覚えるかもしれない。だが、彼女はこの場所をすんなりと受け入れているようだった。
 ひらひらと不規則に舞う蝶から零れ落ちる鱗粉は、キラキラと夜空を瞬く星のように輝いて、横たわる身体に降り掛かると、ゼラチンのように溶けて浸透する。
 彼女の全身は酷く傷付いていた。不調はきっとそのせいだろう。しかし、何故このような場所で眠っていたのか全く思い出せずにいる。
 身体中が傷付いている理由は疎か、自分の名前さえ完全に忘却していた――記憶が抜け落ちてしまっているようだ。
 自身が何者か分からないということは、想像以上に恐ろしいことである。次第に心の裡に仄暗い陰が差し込んでくる。
「ここは……何処だ」
 喉は潰れていないが、嗄れた声しか出ていなかった。どうやらこれが声量の限界のようだ。
 その声に反応したのか定かではないが、この部屋に面した通路の奥から軽い足音が聞こえてくる。誰かがやってくる気配がした。
 カツーン、カツーン、と一定のリズムを刻むヒールの音。その足音から、こちらに来るのが女性であることは確かだ。
 足音は着実に彼女へと近付き、ベッドの縁までやってくると透き通った声で語り掛けてきた。
「ようやく――目が覚めたのですね。お身体の具合は如何ですか?」
 声を掛けられても、首を動かすのが困難故に声の主を見ることが出来ない。失礼だと思いつつ、彼女は寝たままの状態で恐る恐る返事をした。
「具合なら最悪だ……君は誰なんだい? 君が、僕を助けてくれたのか?」
 自分のことを『僕』と呼んでいるが、彼女の性別は女性だ。まだ少女と呼ぶに相応しい容姿である。
「ああ、おいたわしや。私の声を聞いても、誰か分からないなんて。大切な記憶を喪失してしまったのですか」
 彼女の質問を無視して、憐れんだトーンで、今にも泣き崩れそうな返事が戻ってきた。再び訊ねてみる。
「だから、もう一度聞く。君は誰なんだ」
 少し苛立った様子で、同じ問いを繰り返した。それには彼女なりの訳があった。
 精一杯に振り絞って声を出していたので、喉の渇きが急激に増したようだった。
 どうか、もうこれ以上同じことを言わせないでほしいと彼女は願う。脂汗を流して苦悶の表情を浮かべている。
 再び足音がカツーン、カツーン、と数回響く。彼女のために、顔が見える位置まで回り込んでくれたようだ。
 そして、遂に優しい声の持ち主と対面する。次は確実に目と目が合った。
 白いクラシカルなドレスに、絹糸のようなふわりとした銀髪の少女だった。数秒の沈黙が流れて、少女はニコリと微笑んだ。
「どうもご機嫌麗しゅう、アルテミアお姉様。貴女の双子の妹、ルーナにございますわ」

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「お姉様って――この僕が双子の姉だって? 僕は……アルテミアと言う名前なのか?」
 唐突にそのように言われても、困惑するのは至極当然だろう。自分の名前すら思い出せないのに、この状況で妹だと言われても理解が追いつかない。
「覚えていないのも仕方がありませんわ。アルテミアお姉様が殺されてまだたったの二日、今回は特に頭部の損傷も激しかったので」
「殺されてって……僕は生きている。馬鹿な、ここは死後の世界アフターライフとでも言いたいのか」
「不死の身体ですから、殺されても死ぬことはありません。ああ、本当にご無事で何よりです……私は嬉しくて、嬉しくて」
 先程から会話が噛み合わない。アルテミアと呼ばれた少女は、銀髪の少女――ルーナをじいっと見つめて、何かを考えているようだった。
 この少女はからかっているのだろうか。それとも、意味不明なことを述べて悪戯に反応を楽しんでいるだけではないかと思っていた。
「物事には順序がありますから。焦らなくともいいですわ。きっと、必要となった際に記憶は戻ることでしょう。そう、必ず取り戻さないといけませんので」
 ルーナの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。可愛らしい容姿とは裏腹に、ミステリアスな雰囲気も持ち合わせている。
「それよりも、喉は渇いておりませんか? アルテミアお姉様のために、紅茶をご用意しましたの」
 アルテミアは失念していたが、指摘をされたことで余計に喉の奥がひりついてきた。まずは今すぐ喉の渇きを潤すことにする。
「そうだ、さっきから喉が渇いて身悶えしそうだよ。是非、紅茶を頂きたい」
「フフッ、承知しました。では……失礼します」
 ルーナは軽く会釈をすると、白いカップに注いだ真っ赤な紅茶を、一気に口の中に含む。
 何をしているのかとぼんやり眺めていると、姿勢を屈めて顔を寄せてきたルーナは、アルテミアの唇に接吻キスをした。
 
「んぐっ……んむっ!」
 突然の奇行に驚いて、アルテミアは目を白黒とさせている。
 見掛けによらずルーナは強引な舌使いで、ぴったりと閉じた唇を無理やりにこじ開けようとする。
 抗おうとするが、馬乗りの体勢になり両の手で顔をしっかりと固定されていた。瀕死状態の体力では身動きは取れない。
 どう足掻いても全身に力が入ることはなかった。アルテミアは根負けして、抵抗を諦めると潔く身を委ねることにする。
 キラキラと輝く蝶が舞う不思議な空間。その中心で行われる、少女と少女の不思議な光景。ふしだらな行為と好意。
 ゴキュッ、ゴキュ、ゴクッ――。
 くぐもった声と喉を鳴らす音だけが響き渡る。一瞬だけ訪れる束の間の静寂は、舌が絡まる度に掻き消される。
「はぁっ……んあぁ……」
 口移しで飲ませてくれなんて誰も頼んでいないのに、艶めかしい吐息を漏らしながら、尚も激しく接吻をせがんでくる。
 飲み込んだ真っ赤な紅茶は、独特な味がしていた。紅茶には違いないが、やや粘質で鉄の風味が後味に残る。まるで血液のような味――。
 喉が潤って幾許かの余裕が出来たアルテミアは、ルーナの端整な顔立ちの観察を始める。
 淡く儚げな蝶の群れに照らされた彼女は、清楚さと淫らさを兼ね備えた天使だった。否、この場合は堕天使と譬えるべきだろうか。
「んはぁ、あぁっ! アルテミアお姉様、素敵です……もっと、もっと吸いつくように……絡めてくれませんか? ヌチュ、チュッ」
 まだ物足りない、離れたくないといった様子で、口移しを終えてもルーナは小さな舌を突き出して『おねだり』を続けた。
 目を座らせて蕩けた表情を見ていると、拒絶なんて出来なかった。拒絶すら思いつかないといった方が状況的に正しいだろう。
 拒む理由もなければ、何より彼女との接吻が堪らなく気持ち良く、ずっと疼いていたのだ。
 もう一度、唇を重ねる。紡いだ真紅の唾液の糸は、重力に従い湾曲を描いて、やがてプツと余韻を持たせて途切れる。
「あっ……んんっ」
 頬を桃色に染めながら、子猫が母猫に甘える仕草で、執拗に接吻をせがんでくる。その本能的な求愛行為が愛おしいと、アルテミアは思ってしまう。
 ルーナの表情は至福に満ちていた。アルテミアは同性で接吻をすることに背徳感もなければ、罪悪感もないと気付いたのだった。

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 全身の隅々まで熱を帯びてくる。胃の中が紅茶と唾液と分泌液で満たされると、徐々に手や足の感覚が甦ってくるようだった。
 ある程度は身体の自由も利くようになると、今度はアルテミアがルーナの頬に手を添えて、更に強く激しい接吻を求めた。
 お互いの口元はヌラヌラと怪しく光っている。ルーナは初めこそ強引に求められて些か驚いていたが、少しすると恍惚とした笑みで従順に応えていた。
 長い、長い接吻を交わす。何度も舌で突き合う。唇を吸う。舐める。しゃぶる。また吸う。抱き締める。
 服が開けて、胸元の突起物が蝶の鱗粉で覆われた頃、ようやく唇が別れを惜しむようにスッと離れた。
 口の周りは赤い染みでべったりだ。それは血塗れにも見えた。
「ありがとう、充分に渇きは癒えたよ。そして、断片的にだけど、少し思い出した気がする。僕は双子の姉のアルテミア……君のお姉さんだ」
 手の甲で口元を拭いながら、真っ直ぐに見据えて感謝の意を述べる。
「うふふっ。こうして、いつも二人でじゃれ合い接吻を交わしていましたのよ。私のことを思い出してくれて……大変嬉しゅうございます」
 感極まった声で嬉しいと言われて、アルテミアは素直に照れていた。
 ただ、彼女が思い出せたのはほんの少し、砂粒程度のありふれた記憶のひとつに過ぎない。
「いや……それがまだ名前くらいしか。他のことは無理みたいだ。手や足の感覚は少しずつ戻ってきたのだけれど」
 指を開いたり閉じたりしながら、正直に症状を告げる。今はここまでが自分の限界だと感じているようだった。
「ヴェローサお姉様に殺された影響でしょう。頭蓋が砂糖菓子のように砕けて、脳が目や耳や鼻の穴から飛び出していたので。記憶の障害が残ったのかと」
 残酷で残忍な言葉をサラリと並べる。ルーナにとってはこれが日常で、『不死』も『生』も大差ないのかもしれない。否、死なないなら興味すら皆無だろう。
「その、殺された経緯とやらを教えてもらえないだろうか? 一体どうして……」
 ルーナは『ええ』と頷くと、これまであったことを教えた。しかし、その内容はとても信じられるような話ではなかった。
 殺されるまでの事の顛末はこうだ。つい三日前の夜にアルテミアは不死の姉妹のひとり、ヴェローサとの対決で敗れて、見るも無惨な状態だったらしい。
 その瞬間を、偶然離れた場所から見てしまったのがルーナだった。
 活動を停止して間もない新鮮な脳や、散り散りになった四肢、拉げた胴体などをルーナは掻き集めると、急いでこの『輪廻の間』に運び出した。
 そうしてベッドにアルテミアだったものを並べると、つきっきりで出来る限りの処置を施した。
 尤も肉体の治療をするのは、この部屋を縦横無尽に飛び交う蝶の役目である。

 ルーナが言うには、ここに住む姉妹達は全員が不死の病に罹っているらしい。決して死ぬことを許されない肉体だと、淡々と説明を受けていた。
 俄かには信じ難いが、瀕死となっていた自身の怪我の具合から察するに、この話が嘘ではないとアルテミアは思う。
 放っておいても傷付いた肉体は時間を掛けて徐々に回復するらしいが、原型を留めないくらい肉体が破壊されてしまえば、また話は別らしい。
 不死者を完全に蘇生させるには、このシュバルヴァ城でしか繁殖していない翠玉の蝶――スウィートバタフライの鱗粉を浴びる必要があった。
「その名前を聞いて思ったけど、確かに鱗粉は何故か甘い香りもしていた。どんな怪我でも治す、万能の蝶か……」
 アルテミアは矢継ぎ早に色々な質問責めを試みるが、ルーナはそれ以上詳しいことを教えてくれなかった。一遍に大量の記憶を呼び起こすのは精神面への負担を考えて危ういと述べるので、渋々納得をした。
 改めてアルテミアは自分の身体を眺めてみる。本当に酷い有様だった。ジクジクと何かが蠢く傷痕を見ていると、吐き気が込み上げる。
 それは非常に出来の悪いパッチワークのようだった。内臓の位置はあっているのだろうかと不安になるが、医者ではないので、知識などない。
「道理で目覚めた時は全く動けなかったわけだ。見てくれよこれを、側腹部と右脚の損傷が特に痛々しい。馬車に轢かれたカエルのように潰れてしまっている」
「それでも随分治った方ですわ。臓器に至っては挽肉になってよく分からない部位もありましたから。幾ら不死とは言え、今生の別れを覚悟しましたわ」
 態とらしく、大袈裟なジェスチャーをしながらルーナが語る。彼女のリアクションは端から見ていても飽きないものだった。
「挽肉は想像したくない……ところで、僕の姉妹はルーナとヴェローサ、その他にも居るって話だったね。僕達は血を分けた姉妹同士、死なない身体で殺し合っているということか」
 急に、ルーナの表情が真面目になった。
「そういうことです。姉妹だからって、それは理由になりません。この殺し合いを、私達は『カスケーズ』と呼んでおります」
「カスケーズ……」
「はい、それは連続性を保った流れる水の如く――姉妹で殺し合うことは、イコール愛を語らうこと。剣を交わすことは、愛を交えることと同義。とても素敵ではありませんか?」
 さも当たり前のように、殺し合うことを素敵だと言うルーナに、アルテミアは少しも共感が出来なかった。
「そんなこと……これまでの話は、全てが真実なのかい? 神に誓って」
「残念ながら真実です。私達は全員で八人姉妹。そして、最後のひとりになるまで命を賭して戦い、死に逝く者へ永劫の愛を誓うのです」
 アルテミアは莫迦々々しくなっていた。これが真実なら、ここの住人達は気を違えている。
「ハハッ、全く以て意味が分からない。理解の範疇を超えた妄言で、精神を疑うよ。殺し合い? 永劫の愛? それで人が死んでいいものか!」
「……無理もありませんわ。やはり、一遍に伝えるべきではありませんでしたね。今日は、もうこれでお休みにしましょう。続きはまた明日以降に」
「すまない、君が僕を救ってくれたのに……どうやら気が動転しているようだ。ルーナの言う通りにするよ……これまで丁寧に付き合ってくれてありがとう」
 理解が追い付かないことと、記憶をほぼ失ったことで、アルテミアは焦りが全面的に出ていた。だからこそ、相手の言葉に耳を傾けなくてはと、彼女は考えを修正する。
「姉妹で傷付け合うなんて辛いな、愚かだよ。黙って殺されるのも嫌だけど……一体どうして、こんなことになってしまったのか……」
「そう難しく考えないで下さいませ。もっとシンプルな話ですわ。そういう星の下に産まれたのだと思えば、苦にもなりません」
 きっと、彼女なりに最良の気遣いをしているのだろう。これ以上の愚痴を零すなら、それは我儘というものだ。
 アルテミアはルーナの言葉を信じることにした。彼女は血の繋がった双子の姉妹で――命の恩人なのだから。
「分かったよ。まずは怪我を完治させるためにもよく眠ることにする。また、僕のところへ来てくれるかい?」
「ご用命とあらば、いつでも。私は如何なる時でも、アルテミアお姉様の傍におります」

 ドレスの両端を摘んで優雅にカーテシーをすると、ルーナはゆったりとした歩幅で輪廻の間を出ていった。その後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。
 夜の帳が下りるのを待たず、静寂が訪れる。次第にアルテミアは深い眠りへと誘われる。
「不死の病……か……」
 沢山の物事を考えると眠たくなるようだ。ああ、明日起きてからまた考えればいいと彼女は思う。重傷を負った怪我人なのだから、一旦このまま寝てしまおう――と。
 やがて、スゥ、スゥ、と穏やかな寝息が聞こえてきた。そんな彼女の周囲を、スウィートバタフライが鱗粉を振り撒きながらひらひらと舞う。

~第二羽~ 自律動人形オートマータ
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