01.彼女と海
「そう言えば、知ってる――?」
「何が――」
「人は死んだら、何処に行くのか――」
「…………」
唐突な彼女の問いに、男は考えた。その質問が単なる死生観の話なのか、それとも、別の意味を含んだ問いなのか。相手の思考を読み取り、紐解く。
「そうだな――肉体は朽ちて、魂は天に還る。やがて輪廻転生を経て、また地上へと戻ってくる。だから何処にも行かないってのが正解だ」
「クスッ――」
彼女は控え目に笑った。悩んだ末の回答が気障に映ったのか、全くの見当違いで面白かったのか、その微笑の理由が男には分からない。
「君はどう思うんだ?」
今度は男が訊ねた。彼女は波打ち際のギリギリを素足で駆け出して、後ろを振り向きながらおどけて返事をした。
「……分かんないっ」
ザザァーン。ザザザァーン。
彼女の声は波に掻き消された。返事の聞こえなかった男が、もう一度訊ねる。
「君自身は、死んだら何処に行くと思うんだ?」
波の音に被せるように大きな声で言った。彼女は手を後ろに組みながら、ゆっくりと男の傍へと近付いてくる。微笑んでいるが、何処か哀愁の漂う表情を浮かべて――。
「私は、泡になって消えるの――そして、この世界の、誰の記憶からも抹消されるの」
「何だそりゃ、人魚姫伝説のつもりか?」
男は彼女の隣に並んだ。其の儘二人は、足下に目を落として、波と砂浜の分界をひたひたと歩いていく。
「だったらいいなぁって」
「泡になって、か――メルヘンチックだが、それも悪くない」
「でしょう? 私はこの空と、この海に溶けて、一部になるの。此処には居ないけど、此処に居る存在――」
「うん――悪くないよ」
ザザァーン。ザザァーン。
一定の間隔を保ちながら、波は飛沫を上げて迫ってくる。二人の足の爪先に、ひんやりとした水の感触が伝わる。
波のリズムは安らぎを齎し、悠久にも思える時間の流れの中心部に立っているような、そんな錯覚を引き起こす。
ザザーン。ザザーン。ザザァーン。
ザザーン。ザザーン。ザザァー。
彼女と男は、所謂他人だ――。
血縁でもない、年の離れた恋人でもない、ましてや友人知人でもない。ただの他人だ――。
そんな他人同士の二人が出会ったのは、この海だった。
白いワンピースを着た彼女が、海の方を見て佇んでいたところを、偶然にも通り掛かった男が目を奪われた。それが始まりだった。
後日――男曰く、それは良心でも、下心でもなく、他者と違う、自分と同じ疎外感を覚えたからだと語った。彼女は初めて此処で話し掛けられたと喜んでいた。
性別も、年齢も違えば、接点なんてないようだが、意外にも共通点があった。二人は生きることに飽いていた。
彼女の腕や手首には無数の自傷痕があり、男は多量の抗うつ剤を常用していた。
それ以外のことは、お互いに深く知らないし、関与しない。海に来れば出会い、日が暮れたら別れる。ただ、それだけの関係だった。
或る時、彼女が訊ねた。
「ねえ、貴方には大切な人って居る?」
「大切な人……?」
「こんな話はタブーだった?」
「いや、居ないかな」
「ふうん。即答だね。その内に出来るよ」
「俺には無理だろう。分かるんだよ、自分は落伍者だから。仮に大切な人が出来たとしても、その人を大切には出来ない。傷付けて、必ずこの手で壊してしまうだろう」
「そういう自覚はあるんだ?」
「自覚って言うか――予感だ。俺の裡に潜んだ獣〈けだもの〉が、怨嗟を餌にして年々育っている。将来は立派な怪物になるだろう」
「その獣って、どんな容姿だろうね? グレーゴルのような?」
「だな。フランツ・カフカ著作『変身』の主人公、グレーゴルみたいな見た目だ」
「怖いって言うか、ちょっと気持ち悪いね。虫っぽい奴なんだ……」
「言っておくが適当に答えただけだからな」
「あっ、ひどーい! 真面目に聞いていたのに」
ギュウッ、男は頬の辺りを軽く抓られた。しかし、痛みなどはなく、こそばゆい感触だけが頬に残った。
「私も似たようなものだよ。この胸の裡に、違う誰かが存在しているの」
「ほぉう、聞かせてもらおうか」
「獣でも、怪物でもなくて、見た目は天使だけど、精神は悪魔そのもの。ネガティバーな私をあっちの世界に連れ出さんと、粛々とした様子で虎視眈々と狙っている」
「解離性同一症とは違うのか?」
「違うよ。だって、私は私。それ以外の誰でもない。此処に存在する、惨めで醜悪で可哀想なお姫様」
「とんだお姫様が居たものだな」
「でも、実際にそうなんだよ。だから細かいことはいいじゃない。ほら見て、また腕の傷が増えちゃった」
彼女は袖を捲って左腕を見せびらかす。そこには生々しい、赤く血の滲んだ新鮮な傷痕が動脈に沿って縦に刻まれていた。
縦にアームカットをすると皮膚が裂けやすく、動脈や神経を傷付けやすいため、危険度が増して傷の治りも遅いと一般的には言われている。
「これは結構、深く抉ったな……皮膚が盛り上がっているじゃないか。この辺りだと、もう切っても痛みは感じないだろう?」
「全然痛くないよ。それに、本当に痛いのは腕じゃないもの――」
男はまずい、という表情をした。触れてはいけない話題に差し掛かったと思ったからだ。
そんな男の様子を無視して、彼女は補足をする。
「私が痛むのは胸の位置。ハートの部分。バケツ一杯の氷水を浴びたようにキュッとして、ゴツゴツする石で削られたように擦り減って、摩耗して、ボロボロになる」
「一体、どうして――」
彼女は男の唇に指を押し当てて、言葉を無理矢理に静止した。それが暗黙のルール。どちらが決めた訳でもなく、お互いを深く詮索してはいけない規矩準縄なのだ。
「……悪い。俺からは何も探らないよ」
「話せることは話すからね。でも、今はまだ駄目。どうしてか、分かる?」
「時期尚早ってことだろう」
「そうだね、それもあるけど――」
「他に何がある?」
「全てを知った時、世界の均衡が崩れて、二人の居場所が永遠に失われてしまうから」
「多少オーバーにも聞こえるが、成る程――つまり俺達が俺達じゃなくなると」
「こんな関係でも、私はそうなりたくないよ」
「……それだったら俺も困るな」
防波堤の縁に座って、夕刻の海を眺めた。彼女の憂いた横顔は、景色に馴染んで一枚の絵画のように綺麗だった。
「でも、話したくなったらいつでも言いなよ」
「そうだね。その時が来たらね」
「幸いなことに、俺達は他人だ。故に、力になれるかもしれない」
「他人かぁ。うん……ねえ、こっち見て」
彼女は男の方に身体を向けて、真剣な眼差しでジッと見つめた。普段は垂れ目がちで柔らかい目付きが、いつもより力強く感じられる。
「もし、私が死んだら、哀しんでくれる?」
「当然哀しいよ。もし死んだらとか、冗談でもそんなことは思っちゃいけない。思考がそちらに引っ張られるから」
「冗談話じゃないよ。本気で訊いているの。私が死んでも、貴方の記憶の中で生きられるなら、綺麗な儘で、それもいいのかもしれない」
「それは……」
極度の緊張状態にあった男は生唾を飲み込んだ。海風はピタリと止まり、額から汗がジワジワと噴き出す。
彼女の視線は男の思考をテレパスのように抜き取って、何でもお見通しかのように思えた。
顔の距離は僅か三十センチ程。一度も目を逸らすことなく、まじまじと覗き込んだ。瞳の中も、深い深い海のようだった。
「…………」
「困らせちゃった? そう宣言してくれて、ありがとう。それで充分だよ」
彼女はようやくニコリと笑う。いつもの笑顔のようにも見えたが、笑っているけど、影を背負ったような雰囲気はどうしても拭えなかった。
「じゃあ、約束してくれるかな」
「約束する」
「よし――誓いのお礼に、いいものをあげちゃおう」
「いいもの?」
「目を閉じて」
「? ああ――これでいいか?」
男は平静を装っていたが、内心はドキドキが止まらなかった。特別な『ご褒美的なもの』を妄想して、微かな不安と大きな期待を天秤に掛けながら目を瞑った。
彼女はそんな心情を見透かしていた。滑稽で、おかしくって、クスクスと笑っていた。
後ろ手に隠し持っていた『あるもの』を男の手に握らせ、吐息を吹き掛けるようにして、耳元に悪戯声で囁く。
「はい、どうぞ」
「わひゃっ!」
ダイレクトに耳の中に彼女の吐息が入ってきて、男は大層驚いた。変な声を上げてしまったことで、後ほど余計に笑われることとなる。
「あははは! わひゃって言葉、人生で初めて聞いたよ。想像の六倍以上のリアクションご馳走様」
「あのなぁ……イタズラも、って――これは、貝殻か?」
男の手の中には白い貝殻がすっぽりと収まっていた。滑らかな肌触りで、質感は高級白磁のような、不思議と惹かれる代物だった。
「それを耳に当ててみて。何か聞こえる?」
「こうか――? 何も聞こえないけど」
「そんなことないよぉ。私に貸して」
彼女は男から貝殻を受け取ると、そっと目を閉じて優しく耳に当てる。
ザザァーン。ザザァーン。
「うん……聞こえた。とても心地好い流麗な音」
「本当かぁ? 俺には分からなかったぞ」
彼女は少し拗ねたような顔をして、やや意地の悪い口調で答える。
「じ・つ・は、この貝殻に、波の音を閉じ込めたの」
「閉じ込めたって――随分と非科学的だな。それに今は凪だ。波間も穏やかだぞ」
「あーあ、私が言っていること、嘘っぱちで出鱈目野郎だと思っているんだ」
「いや、そこまでは言っていないけど……」
「だったら、もう一度試しに聞いてみて――私のことを、信じて」
彼女は自分の耳に当てた貝殻を男の耳に翳した。信じてと言われたからには仕方なく、渋々と男は目を閉じて聴覚に一点集中した。
遠くから、次第に何かの音が近付いてくる。
徐々にその音は輪郭を増して、波の音だと分かるまで大きくなった。
ザザーン。ザザーン。
「どう? 今度は聞こえた?」
「……確かに、聞こえた。さっきまで全く聞こえなかったのに……どうなっているんだ」
「ねっ。私の言葉を信じてくれたから――だから聞こえたんだよ」
「そう、なのか――」
「良かった。これで、もういつでも大丈夫」
感心している男を他所に、彼女は敢えて小声で呟いた。夢中になって波の音に耳を傾けていた男には、その声は届かなかった。
ザザーン。ザザーン。
季節は七月――初夏の日差しが降り注ぎ、空を見上げれば大袈裟な入道雲が浮かんでいる。性悪そうな太陽熱はジリジリとアスファルトを焦がす。
付近は人通りもない。陸に打ち上げられた腐った魚を目当てに、海鳥か野良猫が気紛れにやって来るくらいだ。
この場所は、多くの人が共通意識として持っているであろう、海辺に在る片田舎の町のイメージと寸分違わない。
男がふらりと海を訪れると、彼女は防波堤に腰掛けていて、いつもの時間、いつもの定位置で必ず待っている。宝石のような瞳が、水平線の彼方を見つめている。そよ風に髪が靡く。
ただひとつ、いつもと違うことがあった。
彼女の膝上に一匹の黒猫が座っていた。およそ生後半年くらいの仔猫だろうか。気持ち良さそうに眠っている。
「やあ。その猫、どうしたの?」
「やっ。ついさっき仲良くなったばかり。膝の上に乗ってきたと思ったら、こてっとねんねしちゃった。図々しい仔だね」
「そりゃあ不貞不貞しい仔猫だな……へえ、元々飼い猫だったのかな。毛並みも整っているし随分と人懐こいようだ」
「ううーん、どうかな。今は飼い猫っぽくないんだけど。一目見た時から、この仔は他人……じゃなくて他猫じゃない気がしたの」
「別にどっちでもいいか。それで、今日は何をしていたのかい」
「海に向かってシャボン玉を飛ばしていた――」
彼女の手には、シャボン液が入ったボトルと吹き棒が握られていた。プーッと吹くと、小さなシャボン玉がふわりふわりと頼りなく飛んでいく。
「おお、上手だね」
「ふふっ、下手な人の方が稀だって」
二人はシャボン玉の行方を視線で追った。数メートル先でパン、と割れて、産まれたばかりの命は僅か数秒で潰えた。
「上手に飛ばしても、一瞬で終わっちゃう。この儚さが、私は堪らなく好き――」
「風情があるってことかな」
彼女はボトルを置いて、海の遠くを眺めている。いつも以上に寂しそうな表情だった。
「……この町は変わらない。ずっと閉塞的で、退屈で、その退屈が幸福だと履き違えた大人達が暮らす、偽りの居住地」
「そんなに僻むなって。俺も同意見ではあるけど、この退屈な時間も、慣れてしまえば案外嫌いじゃない」
「むぅ……大人の意見だ」
「幾つ歳が離れていると思っているんだ? まあ、幾つかは知らないが、一回り以上は俺の方が絶対に年上だぞ」
「一回りどころか、三十歳以上は離れているんじゃないかなぁ?」
「なっ……そ、そんなに俺は老け顔に見えるか?」
初老の男性だと思われていたことに大きなショックを受けていた。肩をがっくしと落として溜息を漏らす。
そんな悲壮な状況を見て、直ぐ様に訂正(フォロー?)が入った。
「あははっ、嘘だよ嘘。面白かった?」
「大人をからかうなよ、全く……」
「だってだって、女は嘘を吐く生き物だから。簡単に騙されちゃいけないよ」
「……それを何て言うのか、知ってるか?」
「なぁに??」
「マセガキ」
「…………」
彼女は黙った儘、ガシガシと何度も男の脛を蹴り始めた。無言の圧を掛けながら、表情だけは笑顔を崩していないのが却って怖い。
蹴る力は弱かろうが、人体の急所を何度も攻撃されると、痛みは蓄積される。弁慶の泣き所とはよく言ったものだ。男は堪らず制止した。
「ちょ、俺が悪かったから! そろそろ地味に痛い」
「これは天罰だもん」
「天も情け容赦ないな……あいててて。俺は、別に嘘が全て悪いとは思わない。寧ろ、その中には優しい嘘も含むと考えるタイプだ」
「それって、譬えば――?」
「譬えば、そうだな……」
「じゅーう、きゅーう、はーち」
「分かった分かった、すぐ答えるから。カウント止め」
「私がきちんと納得するようなロジックで答えてね」
「あぁ、はいはい。優しい嘘ってのは、傷付く相手が誰も居ない嘘のことだ」
「…………」
「どうした?」
彼女はずいと顔を近付けて、じいっと覗き込んだ。茶褐色を帯びた男の目は、まだあどけない彼女の姿を逆様に映し出す。
「…………」
「そ、そんなに顔近づけるなよ」
「優しい嘘のこと。もっと詳しく」
男は慌てて顔を逸らすと、コホンと咳払いして、説明を続けた。
「これは譬え話だが――或る少年は未来予知の能力を持っていた。少年は、明日に世界が終わることを知って、その事実を恋人に教えようか悩んでいた」
「うんうん。それで?」
「教えることに決めたが、恋人の顔を見た瞬間、少年は伝えることが出来なかった。どうしてだと思う?」
「ヒントが欲しい」
「少しは考えておくれ。まずは自力で解いてみな」
彼女はうぅ、と小さな声で呻くと額に手を添えて探偵のように熟察を始めた。そのポージングからハンチング帽とブライヤーのパイプがとても似合いそうだ。
チッチッチッチ――その体勢を維持して、数分が経過する。微動だにしなかった彼女が、ようやく重たい口を開いた。
「うーん……恋人と過ごす最期の時間を、今までと同じような日々にしたかったから?」
「いい線だが、五十点」
「それって五十点満点中の五十点だよね」
「んな訳無いだろ。百点満点中だ。正解は、恋人が泣いていたから」
「んん……? それ、どう言うこと?」
答えが理解出来ずに、彼女は小首を傾げた。泣いていたらどうして伝えないのか、理由が知りたいといった顔をしている。名探偵ならぬ迷探偵のカンは大きく外れた。
「正解は、恋人も未来予知が出来たんだ――だが、その女の子が見たものは世界の行く末じゃなくて、大好きな少年との途切れた運命だった」
「あぁ……」
「恋人の涙を見て驚いた少年は、優しい嘘を吐いた。きっと君は良からぬ想像をしているだろうけど、それは悪い夢だよ、現実はもっと甘美だよって――」
「ロジックは分かったけど質問いい?」
「揚げ足を取らないならどうぞ」
「その後、少年と恋人は、世界が終わる瞬間をどのように迎えたの?」
彼女の問い掛けに対しての答えを、男は準備していなかった。そこで、今更になって物語の結末を考える。
二人はどのようにして最期の時間を過ごしたのか。どんな言葉を交わしたのか。継ぎ接ぎの物語を補整しながら想いを馳せる。
ザザァーン。ザザァーン。
心地好い潮の風が頬をくすぐる。彼女は仔猫の喉をスリスリと撫でながら、答えを待っていた。膝に抱かれた仔猫は頭を擦り付けてグルグルと喉を鳴らす。
「きっと――」
「きっと?」
「少年と恋人は、最期の終わる瞬間までお互いを欺いて、嘯いて過ごしたと思う。お互いに相手を傷付けない代わりに、偽った自分を傷付けていた」
「丁寧に纏めたね。マール、起きて頂戴」
彼女はマール(いつ仔猫に名前を付けたのだろうか?)を膝から退かして立ち上がると、スカートの裾をパンパンと手で叩いて砂粒を払った。
それから、ひらりと回転して、海の方へと歩いていく。スカートが捲れて露わになった内股が彼女の可憐さを引き立てる。
「ほら、あれ見て――」
「あれって――?」
男も立ち上がって、彼女に近寄ると、指差した遥か遠い方向を眺めた。その正面には真っ赤に染まる夕日が、ゆらゆらと怪しく揺れながら浮かんでいた。
「大きな夕日。でも、死にたくなるような色してる」
「血液のように真っ赤だから、かな」
「それもあるけど――夕暮れって昼と夜の境目だから。逢魔時って言うでしょ? 逢魔時は別名で大禍時。今の時間帯は本来とても不吉で、禍々しい瞬間〈とき〉だから」
話の筋は多少違えど、男も小さい頃に祖母から聞いたことのある内容であった。逢魔時――それは、昼でもなく、夜でもない、魑魅魍魎の類に出会す特別な瞬間だと。
海風が吹くと男はやや肌寒さを覚えた。自分の隣に居る彼女はもっと薄着なのだから、風邪を引いてしまわないかと心配になる。
「なぁ、今日はそろそろ帰ろうか」
「…………」
「急に黙って、どうした?」
彼女は、自分の頭を傾けて男の肩に委ねた。それから気恥ずかしそうに、ぽつりと呟く。
「……帰りたくないな」
「引き止めたいところだが――それだと、俺達の関係性が崩壊してしまう。この世界で唯一の秩序を乱したくない。分かるよな」
男は彼女の切なる願いを拒んだ。拒むつもりではなかったとしても、彼女はそのように受け取った。
観念をしたのか、彼女は頭を擡げて、なるべく明るく振る舞った。
「えへへ、そうだねっ。もうすぐ暗くなるし、気温も冷え込んできたから帰ろっ――」
「そうだな。また今度な」
「今度じゃなくて――明日ね? 先に待っている」
「……あぁ。また明日」
二人は手を振って別れた。お互いに帰るべき場所へと足を運ぶ。波の音が次第に遠く離れてゆく。
ザザァーン。ザザァーン。
「……さよなら」
また明日――それが、男と彼女の交わした最期の言葉になった。
翌朝、海岸に打ち上げられていた、彼女だった身体の一部が発見されることになる。
それは、正に呆然自失――男は立ち尽くして夕暮れの海を眺めていた。その目からは光が消え、死人のような生気のない顔をしている。
否、死んだのは男ではなく、彼女――未だ名前すら知らない幼い少女の命は、呆気なくこの海に散った。
後に走り書きした遺書が見付かり、入水自殺だと分かった。発見された身体の一部は、海洋生物に食い荒らされた食べ滓だった。
「約束……したじゃないか……」
ぼそりと男は呟いた。彼女の自傷癖は気になっていたが、まさか衝動的に命を絶つようなことはしないと思い込んでいた。
唯一彼女と接点があった男は、警察から何度か事情聴取を受けた。事件性はほぼ無いとのことで、二、三の質問と最近の様子を訊かれただけだった。
もう数時間は経つだろうか。男の喪失感は甚大で、比喩でもなく、ぽっかりと心に穴が空いた状態だった。空いた心の穴に、海から吹く隙間風がピューッと通過する。
「にゃーご」
足下を見ると、昨日彼女の膝の上で眠っていた仔猫が擦り寄ってきた。踝に何度も頭突きをして、尾を立てながら執拗に甘えてくる。
「お前は……確か、マールって言ったっけ」
「にゃおーん」
そうだよ――って、マールが返事をした気がした。
「お前も、寂しいか?」
「…………」
マールは無視をした。足下をぐるりと回り、尻を突き出してにゅーっと背伸びをすると、男のズボンに脚を伸ばしてポケット付近を夢中になって弄〈まさぐ〉ってくる。
「おいおい、何をしているんだ?」
どうやらマールがちょっかい出していたのは、彼女から貰った貝殻のようだった。男はポケットに入れた儘だったことを、完全に失念していた。
「今ではこれが、唯一の形見になってしまったな」
男は防波堤に腰を掛けた。すかさず膝の上にマールが飛び乗ってくる。丸くなって、すぐにうとうとと始めた。
「そういう自由奔放で無邪気なところ、彼女とそっくりだよ、お前は……」
右手でマールの背中を撫でながら、左手で貝殻を色々な角度に回して眺めた。彼女が遺してくれた、たったひとつの形見の貝殻――。
何となく、目を閉じて、そっと耳に当ててみる。
ザザァーン。ザザァーン。
ねえ……ザザーン。聞こ……える……ザザァーン。
零れる波の音に紛れて、微かに女性の声が届いた。男は目を見開いて驚く。何故なら、その声は聞き覚えのある声だったからだ。
「嘘、だよな――」
再度、貝殻をじっくりと観察するが、何ら変哲のないものだった。恐る恐る、もう一度耳に当てる。
私、だよ……分かる……よね?
今度ははっきりと聞こえた。最早聞き間違いのない声、自死を遂げた筈の、あの彼女の声だった。
「……聞こえる……聞こえるよ!」
男は殻口に向かって叫んだ。莫迦げているかもしれないが、もしかすると、これは現世と霊界を繋ぐ受信器のように男は思った。
「良かった……約束、守れなくてごめんね――」
「なんでだよ、何があったか教えてくれ!」
「落ち着いて聞いて。私は確かに死んだけど、まだ生きている――」
「はぁっ?! 意味分かんねーよ!」
「だから、落ち着いて。私のことを信じてくれるって言ったよね? きちんと話を聞いて。私は貴方のことを信じている。だからお願い」
「……怒鳴って悪ぃ。落ち着くよ。こうして会話が出来ているのは、本当に生きているか、俺の頭がおかしくなったのか、どちらかだからな――」
死んだ筈の彼女と話していることに動揺を隠せなかった。もし、これが幻聴もしくは幻覚だったらと考えると、男は恐怖心に押し潰される思いがした。
ただ、そんな状況下でも、こうしてまた会話が出来たことに少なからず嬉しくなっていた。
驚喜、驚嘆、憂虞、憂慮。ぐるぐると複雑な感情が弧を描き、溶かしたバターのように入り交じる。彼女の声が、再び波の音と混じって貝殻から届く。
「私に、会いたい――?」
「会いたいに決まっているだろう――」
「私を、助けてくれる――?」
「俺に出来ることなら、助けたい――」
「じゃあ、其の儘真っ直ぐ歩いてきて――」
男はゆっくりと立ち上がる。マールが膝から転げ落ちるが、それも気に留めなかった。
彼女の声に誘われて、ふわふわと夢遊病患者のように、覚束ない足取りで海に向かって歩き始めた。
それは、さながら死者の行進を彷彿とさせた。足首が冷たい海水に触れる。男を後追いしてマールもついてきた。
「怖くない――?」
優しい声で、彼女が問い掛ける。
「怖くないよ――」
先程までの、男の恐怖心は麻痺をしていた。
「海水、冷たいよね――?」
心配そうな声で、彼女が問い掛ける。
「君も冷たかったのだろう、平気だよ――」
冷たさは消え、男の触感は麻痺をしていた。
「思い残すことはない――?」
切ない声で、彼女が問い掛ける。
「この人生、俺には合わなかった――」
後悔が背中を押して、男の未練は麻痺をしていた。
「それなら、一緒に海の底に沈もう――?」
声にならない声で、彼女が問い掛ける。
「ああ、一緒に海の底に沈もう――」
足場がなくなると、地上が遠く遠く離れてゆく。
男と、そして一匹の仔猫は、ゆっくりと海中に沈んだ。肺まで海水に浸かり、意識が朦朧としてくる。藻掻く力も湧かず苦しさの峠を越えた。
今は、彼女の声は聞こえない――。
「ああ、ああ、次の世界では、もう一度君と――」
もう一度、君と――。
ザザァーン。ザザァーン。
ザザァーン。ザザァー。
02.他郷〈アザ・ワールド〉
※試読終了