01.彼女と海
「そう言えば、知ってる――?」
「何が――」
「人は死んだら、何処に行くのか――」
「ああ、そうだな――」
唐突な彼女の問いに、男は考えた。その質問が単なる死生観の話なのか、それとも、別の意味を含んだ問いかけなのか。相手の思考を読み取り、答えを紐解く。
「俺の考えだと、肉体は朽ちて、魂は神様のいる天に還る。やがて輪廻転生を経て、また魂は地上へと戻ってくる。だから『何処にも行かない』ってのが正解だ」
「クスッ――」
彼女は控え目に笑った。悩んだ末の回答が気障に映ったのか、全くの見当違いでおかしかったのか、その微笑の理由が男には分からない。
「君はどう思うんだ?」
今度は男が訊ねた。彼女は波打ち際を素足で駆け出して、クルッと後ろを振り向きながらおどけて返事をした。
「……分かんないっ」
ザザァーン。ザザザァーン。
彼女の優しい声は波に掻き消された。返事の聞こえなかった男が、もう一度訊ねる。
「君自身は、死んだら何処に行くと思うんだ?」
波の音に被せるように大きな声で言った。彼女は手を後ろに組みながら、ゆっくりと男の傍へと近付いてくる。微笑んではいるが、哀愁の漂う表情を浮かべて――。
「私は、泡になって消えるの――そして、この世界の、誰の記憶からも抹消されるの」
「なんだそりゃ、人魚姫伝説のオマージュか?」
男は彼女の隣に並んだ。そのまま二人は、足下へと目を落として、波と砂浜の分界をひたひたと歩いてゆく。
「だったらいいなぁって」
「泡になって、か――メルヘンチックだが、それも悪くないかもな」
「でしょう? 私はこの空と、この海に溶けて、世界の一部になってしまうの。ここには居ないけど、ここに居る、誰の手にも届かない存在へ――」
「うん――悪くないと思う」
ザザァーン。ザザァーン。
一定の間隔を保ちながら、波は細かい飛沫を上げて迫ってくる。二人の足の爪先に、ひんやりとした水の感触が伝わる。
波のリズムは安らぎを齎し、悠久にも思える時間の流れの中心部に降り立つような、そんな淡い錯覚を引き起こす。
ザザーン。ザザーン。ザザァーン。
ザザーン。ザザーン。ザザァー。
彼女と男の出会いは、偶然が呼び起こした必然だった。
歳の離れた恋人ではなく、ましてや友人とか知人でもない。
二人が出会ったのはこの場所、この海だった。
白いワンピースを着た彼女が海を見て佇んでいる。それを偶然通りかかった男の目を奪った。単純だが、それがきっかけであり、始まりだった。
後日――男曰く、あの時は良心や下心でもなく、他人とは違う、自分と同じ疎外感を覚えたからだと語った。彼女は初めてこの場所で人に話しかけられたと喜んでいた。
性別も、年齢も違えば、接点なんてないようだが、意外にも共通点があった。二人は生きることに若干疲れ、人生と言う名の安っぽいドラマに飽いていた。
その証拠に、彼女の腕や手首には無数の自傷痕があり、男は多量の抗うつ剤を常用していた。少ない酸素を求める金魚のように、逃避する場所を探し続けていた。
それ以外のことは、お互いに深く知らないし、関与もしない。海に来れば出会い、日が暮れたら別れる。ただ、それだけの奇妙な間柄だった。
ある時、彼女が訊ねた。
「ねえ、貴方には大切な人って居る?」
「大切な人……?」
「こんな話はタブーだった?」
「いや、別に。でも居ないかな」
「ふうん。即答だね。その内に出来るよ、必ず」
「俺には無理だろう。分かるんだよ、自分は落伍者だから。仮に大切な人が出来たとしても、その人を大切には出来ない。傷付けて、必ずこの手で壊してしまうだろう。俺は人を不幸にする才能だけは優れているらしい」
「意外。そんな自覚はあるんだ?」
「自覚って言うか――予感だ。俺の裡に潜んだ獣〈けだもの〉が、怨嗟を餌にして年々育っている気がする。将来は大層立派な怪物になるだろう」
「その獣って、どんな容姿だろうね? グレーゴルのような?」
「だな。フランツ・カフカ著作『変身』の主人公、グレーゴルのような見た目だ」
「怖いって言うより、ちょっと気持ち悪いね。虫っぽい奴なんだ……」
「言っておくが容姿は適当に答えただけだからな」
「あっ、ひどーい! 真面目に聞いていたのに」
ギュウウッ、男は頬の辺りを軽く抓られた。しかし、痛みなどはなく、こそばゆい感触だけが頬に残った。
「私も似たようなものだよ。この胸の裡に、違う誰かが棲み付いているの。私が抱く負の全般を受け持つ損な役回りかな」
「ほぉう。その話、聞かせてもらおうか」
「獣でも、怪物でもなくて、見た目は天使だけど、精神は悪魔そのもの。ネガティバーな私をあっちの世界に連れ出さんと、粛々とした様子で、虎視眈々と狙っている」
「解離性同一症とは違うのか? そんなイメージだが」
「違うよ。だって、私は私。それ以外の誰でもない。ここに存在する、惨めで醜悪で可哀想なお姫様。どう? 慰めたくなってきたでしょう」
「とんだプリンセスが居たものだな。狡猾で怠惰で図太いお姫様の間違いだろう?」
「またまたひどーい! でも、実際にそうなんだよ。悲観主義者ぶっているわけじゃないよ。ほら見て、また腕の傷が増えちゃった」
彼女はレースを捲って左腕を見せびらかす。そこには生々しい、赤く血の滲んだ新鮮な傷痕が動脈に沿って縦に刻まれていた。
縦にアームカットをすると皮膚が裂けやすく、動脈や神経を傷付ける確率が高くなり、危険度が増して傷の治りは遅いと一般的には言われている。彼女は自分の傷付け方を熟知していた。
「これは結構、深く抉ったな……皮膚がブヨブヨして盛り上がっているじゃないか。この辺りだと、切っても痛みは感じないだろう?」
「全然痛くないよ。それに、本当に痛いのは腕じゃないもの――」
男はまずい、という表情をした。触れてはいけない話題に差しかかったと思ったからだ。
そんな男の様子を無視して、彼女はあっけらかんとした様子で補足をする。
「私が痛むのは胸の位置、ハートの部分。バケツ一杯の氷水を浴びたようにキュッとして、ゴツゴツする石で削られたように擦り減って、摩耗して、ボロボロになる」
「一体、どうして――」
彼女はツツ、と男の唇に指を押し当てて、もごもごと動く口を無理矢理に静止した。
それが暗黙のルール。どちらが決めた訳でもなく、お互いを深く詮索してはいけない規矩準縄〈きくじゅんじょう〉なのだ。
「……悪い。俺からは何も探らないよ」
「話せることは話すからね。でも、今はまだダメ。どうしてか、分かる?」
「時期尚早ってことだろう」
「そうだね、それもあるけど――」
「他に何がある?」
「全てを知った時、世界の均衡が崩れて、二人の還るべき場所が永遠に失われてしまうから」
「多少オーバーにも聞こえるが、なるほど――つまり、俺達が俺達じゃなくなると」
「こんな、夜の露みたいな関係でも、私はそうなりたくないよ」
「……それだったら俺も困るな」
防波堤の縁に座って、夕刻の海を眺めた。彼女の憂いた横顔は、景色に馴染んで一枚の絵画のように綺麗だった。
「でも、話したくなったらいつでも言いなよ」
「そうだね。その時が来たらね」
「幸いなことに、俺達は他人だ。故に、もしかすると力になれるかもしれない」
「他人かぁ。他人ね、うん……ねえ、こっち見て」
彼女は男の方に身体を向けて、真剣な眼差しでジッと見つめた。普段は垂れ目がちで柔らかい目付きが、いつもより力強く感じられる。
「もし、私が死んだら、この世から消えて居なくなったら、心から哀しんでくれる?」
「当然哀しいよ。もし死んだらとか、冗談でもそんなこと思っちゃあいけない。思考がそちら側に引っ張られてしまう」
「与太話じゃないよ。本気で訊いてるの。私が死んでも、貴方の記憶の中で生きられるなら、綺麗なままで、それもひとつの結末としていいのかもしれない」
「それは……」
緊張状態に追い込まれた男は生唾を飲み込んだ。海風はピタリと止まり、額から汗がジワジワと噴き出す。
彼女の視線は男の思考をテレパスのように抜き取って、何でもお見通しかのように思えた。そんな奇天烈な能力があっても不思議と納得が出来てしまう。男も、彼女も、世界から見れば些細な異物なのだ。
顔の距離は僅か三十センチ程。一度も目を逸らすことなく、まじまじと覗き込んだ。瞳の中も、深い深い海のようだった。
「…………ごめん」
沈黙に我慢が出来ず、不意に男は謝ってしまった。
「困らせちゃった? 哀しいと言ってくれて、ありがとう。それで充分だよ」
彼女はようやくニコリと笑う。いつもの笑顔に見えたが、笑ってはいるけど、影を背負ったような雰囲気はどうしても拭えなかった。
「じゃあ、約束してくれるかな」
「約束する」
「よぉし――誓いのお礼に、いいものをあげちゃおう」
「いいもの?」
「ほら、目を閉じて」
「ああ――これでいいか?」
男は平静を装っていたが、内心はドキドキが止まらなかった。特別な『ご褒美的なもの』を妄想して、微かな不安と、大きな期待を天秤にかけながら、ギュッと目を瞑った。
彼女はそんな心情も見透かしていた。滑稽で、面白くて、クスクス笑っていた。
後ろ手に隠し持っていた『あるもの』を男の手にぎゅっと握らせると、吐息を吹きかけるようにして、イタズラ声で耳元に囁く。
「はい、どうぞ」
「わひゃっ!」
ダイレクトに耳の中に彼女の吐息が入ってきたので、男は素になって驚いた。変な声を上げてしまったことで、後ほど弄られることとなる。
「あはははっ! わひゃって感嘆詞、生まれて初めて聞いたよ。想像の六倍以上のリアクションどうもご馳走様」
「あのなぁ……悪戯も程々に、って――これは貝殻か?」
男の手中には白い貝殻がすっぽりと収まっていた。滑らかな肌触りで、質感は高級白磁のような、ずっと触れていたくなる代物だった。
「それを耳に当ててみて。何か聞こえる?」
「こうか? 何も聞こえないけど」
「そんなことないよ。ほら、私に貸して」
彼女は男から貝殻を取り上げると、そっと目を閉じて、優しく耳に当てる。
ザザァーン。ザザァーン。
「うん……聞こえた。とても心地好い、流麗な音」
「本当か? 俺には分からなかったぞ」
彼女は拗ねたような顔をして、少し意地の悪い口調になっていた。
「じ・つ・は、この貝殻に、波の音を閉じ込めたの」
「閉じ込めたって――随分と非科学的な話だな。それに海風の状態は凪だ。波間だって穏やかだぞ」
「あーあ、私が言っていること、嘘っぱちでデタラメだと思っているんだ」
「いやいや、そこまでは言っていないけど……」
「だったらもう一度、試しに聞いてみて――私のことを、信じて?」
彼女は自分の耳に当てた貝殻を男の耳に翳した。信じてと言われたからには仕方なく、男は渋々目を閉じて、聴覚へと一点集中した。
ザー、ザザ……遠くから、次第に何かの音が近付いてくる。
徐々にその音は輪郭を増して、波の音だと分かるまで大きくなった。
ザザーン。ザザーン。
「どう? 今度は聞こえた?」
「……確かに、聞こえた。さっきまで全く聞こえなかったのに……どうなっているんだ?」
「ねっ。私の言葉を信じてくれたから――だから、聞こえたんだよ」
「そう……なのか」
「良かった。これで、もういつでも準備は大丈夫」
感銘している男を他所に、彼女は敢えて小声で呟いた。夢中になって波の音に耳を傾けていた男には、その声は届かなかった。
ザザーン。ザザーン。
季節は七月――初夏の日差しが降り注ぎ、空を見上げれば大袈裟に入道雲が浮かんでいる。性悪そうな太陽熱はジリジリとアスファルトを焦がす。
付近は人通りもない。陸に打ち上げられた腐った魚を目当てに、海鳥が気紛れにやってくるくらいだ。
この場所は、多くの人が共通意識として持っているであろう『海辺に在る片田舎の町』のイメージと寸分違わない。
男がふらりと海を訪れると、彼女は防波堤に腰かけていた。いつもの時間、いつもの定位置で必ず待っている。宝石のような瞳が、水平線の彼方を見つめている。そよ風に髪が靡く。
強いて言えば、ただひとつ、いつもと違うことがあった。
彼女の膝上に一匹の黒猫が座っていた。およそ生後半年くらいの仔猫だろうか。気持ち良さそうにスヤスヤ眠っている。
「やあ。その猫、どうしたの?」
「やっ。ついさっき仲良くなったばかり。膝の上に乗ってきたと思ったら、こてっとねんねしちゃった。図々しい仔だね」
「そりゃあ不貞不貞しい仔猫だな……へえ、元々飼い猫だったのかな。毛並みも艶があるし随分と人懐こいようだ」
「ううーん、どうかな。あんま飼い猫っぽくないんだけど。一目見た時から、この仔は他人……じゃなくて他猫じゃない気がしたの」
「別にどっちでもいいか。それで、今日は何をしていたのかい」
「海に向かってシャボン玉を飛ばしていた――」
彼女の手には、シャボン液が入ったボトルと吹き棒が握られていた。プーッと吹くと、小さなシャボン玉がふわふわりと頼りなく飛んでいく。
「おお、上手だね」
「ふふっ、こんなの下手な人の方が稀だって」
二人はシャボン玉の行方を視線で追った。数メートル先でパン、と割れて、産まれたばかりの命は僅か数秒で潰えた。
「どれだけ上手に飛ばしても、一瞬で終わっちゃう。この儚さが、私は堪らなく好き」
「儚いものは美しい、と――相場が決まっているからな」
彼女はボトルを置いて、海の遠くを眺めている。いつも以上に寂しそうな表情だった。
「……この町は、世界は変わらない。ずっと閉塞的で、退屈で、その退屈が幸福だと履き違えた大人達が暮らす、偽りの居住地」
「そんなに僻むなって。俺も同意見ではあるけど、この退屈な時間も、慣れてしまえば案外嫌いじゃない」
「むぅ……大人の意見だ」
「幾つ歳が離れていると思ってんだ? まあ、幾つかは知らないが、一回り以上は俺の方が絶対に年上だぞ」
「一回りどころか、三十歳以上は離れているんじゃないかなぁ?」
「なっ……そ、そんなに俺は老け顔に見えるか?」
初老の男性だと思われていたことに大きなショックを受けていた。肩をがっくしと落として、力なく溜息を漏らす。
そんな悲壮な状態を見兼ねて、直ぐ様に訂正〈フォロー〉が入った。
「あははっ! 嘘だよ、嘘。面白かった?」
「大人をからかうなよ、はぁ……」
「だってだって、女は嘘を吐く生き物だから。簡単に騙されちゃいけないよ」
「……それを何て言うのか、知ってるか?」
「なぁに??」
「マセガキ」
「…………」
彼女は黙ったまま、ガシガシと何度も男の脛を蹴り始めた。無言の圧をかけながら、表情だけは笑顔を崩していないのが却って怖い。
脚力は年相応で弱かろうが、人体の急所を何度も攻撃されると、痛みは徐々に蓄積される。弁慶の泣き所とはよく言ったものだ。男は堪らず制止した。
「ちょっ、俺が悪かったから! そろそろ地味に痛い」
「これは天罰だもん」
「天も情け容赦ないな……あいててて。俺は、別に嘘が全て悪いとは思わない。寧ろ、その中には優しい嘘も含むと考えるタイプだ」
「それって、例えば――?」
「例えば、そうだな……」
「じゅーう、きゅーう、はーち」
「分かった分かった、すぐ答えるから。カウント止め」
「私がきちんと納得するようなロジックで答えてね」
「あぁ、はいはい。優しい嘘ってのは、傷付く相手が誰も居ない嘘のことだ」
彼女はポカンとした表情で話を聞いていた。端から見るとやや腑抜けた顔だ。
「どうした?」
螺子を巻き忘れた人形のように静止していた彼女は、その命を宿して再び動き出す。
彼女はずいと顔を近付けて、じいっと瞳の中を覗き込んだ。茶褐色を帯びた男の目は、まだあどけない彼女の姿を逆様に映し出す。
「うーん……」
「そ、そんなに顔近づけるなよ」
「優しい嘘のこと。もっと詳しく」
男は慌てて顔を逸らすと、コホンと咳払いして、説明を続けた。
「これは譬え話だが――ある少年は未来予知の能力を持っていた。少年は、明日に世界が終わることを知って、その事実を恋人に教えようか悩んでいた」
「うんうん。それで?」
「結局教えることに決めたんだが、恋人の顔を見た瞬間、少年は伝えることが出来なかった。どうしてだと思う?」
「ヒントが欲しい」
「少しは考えておくれ。まずは自力で解いてみな」
彼女はうぅ、と小さな声で呻くと額に手を添えて探偵のように熟察を始めた。そのポージングから、ハンチング帽とブライヤーのパイプがとても似合いそうだ。
チッチッチッチ――その体勢を維持して、数分が経過する。微動だにしなかった彼女が、何か閃いたようだ。頭上でピコンと電球の点灯した幻影が見えた。
「ううーん……恋人と過ごす最期の時間を、今までと同じような日々にしたかったから?」
「いい線だが、五十点」
「それって五十点満点中の五十点だよね」
「んな訳ないだろ。百点満点中だ。正解は、恋人が泣いていたから」
「んん……? それ、どう言うこと? 答えになってない」
意味が理解出来ずに、彼女は小首を傾げた。泣いていたらどうして伝えないのか、理由が知りたいといった顔をしている。名探偵ならぬ迷探偵の勘は大きく外れた。
「正解は、恋人も未来予知が出来たんだ――だが、その女の子が見たものは世界の行く末じゃなくて、大好きな少年との途切れた運命だった」
「あぁ……そっか」
「恋人の涙を見て驚いた少年は、優しい嘘を吐いた。きっと君は良からぬ想像をしているだろうけど、それは悪い夢だよ、現実はもっと甘美だよって――」
「ロジックは分かったけど質問いい?」
「揚げ足取らないならどうぞ」
「後日譚だけど――少年と恋人は、世界が終わる瞬間をどのように迎えたの?」
彼女の問いかけに対しての答えを、男は準備していなかった。そこで、今更になって物語の結末を考える。
二人はどのようにして最期の時間を過ごしたのか、どんな言葉を交わしたのか。継ぎ接ぎの物語を補整しながら想いを馳せる。
ザザァーン。ザザァーン。
心地好い潮の風が頬をくすぐる。彼女は仔猫の喉をスリスリと撫でながら、答えを待っていた。膝に抱かれた仔猫は頭を擦り付けてグルグルと喉を鳴らす。
「きっと――」
「きっと?」
「少年と恋人は、最期の終わる瞬間までお互いを欺き、嘯いて過ごしたと思う。お互い相手を傷付けない代わりに、偽った自分を傷付けていたのさ」
「丁寧に纏めたね。マール、起きてちょうだい」
彼女はマール(いつ仔猫に名前を付けたのだろうか?)を膝から退かして立ち上がると、スカートの裾をパンパンと手で叩いて砂粒を払った。
それから、ひらりと回転して、海の方へと歩いていく。スカートが捲れて露わになった内股が彼女の可憐さを引き立てる。
「ほら、あれ見て」
「あれって?」
男も立ち上がって、彼女に近寄ると、指差した遥か遠い方向を眺めた。その正面には真っ赤に染まる夕日が、ゆらゆらと怪しく揺れながら浮かんでいた。
「大きな夕日。でも、死にたくなるような色してる」
「血液のように真っ赤だから、かな」
「それもあるし――夕暮れって昼と夜の境目だから。逢魔時って言うでしょ? 逢魔時は別名で大禍時。今の時間帯は本来とても不吉で、禍々しい瞬間〈とき〉だから」
話の筋は若干異なるが、男も小さい頃に祖母から聞いたことのある内容であった。逢魔時――それは昼でもなく、夜でもない、魑魅魍魎の類に出会す特別な瞬間だと。
海風が吹くと男は少々肌寒さを覚えた。自分の隣に居る彼女はもっと薄着なのだから、風邪を引いてしまわないかと心配になっている。
「なぁ、今日はそろそろ帰ろうか」
「ん……あのね……」
「うん? 急に、どうした?」
彼女は、自分の頭を傾けて男の肩に委ねた。それから気恥ずかしそうに、ぽつりと呟く。
「……帰りたくないな」
「引き止めたいところだが――それだと、俺達の関係性が崩壊してしまう。この世界で唯一の秩序を乱したくない。分かるよな」
男は彼女の切なる願いを拒んだ。拒むつもりではなかったとしても、彼女はそのように受け取った。
観念をしたのか、彼女は頭を擡げて、なるべく明るく振る舞った。
「えへへ、そうだねっ。もうすぐ暗くなるし、気温も冷え込んできたから帰ろっ――」
「そうだな。また今度な」
「今度じゃなくて――明日ね? 先に待っている、あっちで……」
「あっち? あぁ、また明日」
意味深な言葉は特に気にせず、男は手を振って別れた。お互いに帰るべき場所へと足を運ぶ。波の音が次第に遠く離れてゆく。
ザザァーン。ザザァーン。
「あっちの世界で、待っているね……さよなら」
また明日――それが、この場所で男と彼女の交わした最期の言葉になった。
翌朝、海岸に打ち上げられていた、彼女だった身体の一部が近所の住人達によって発見されることになる。
02.他郷〈アザ・ワールド〉
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